(県 裕樹) 昼下がり。そろそろオヤツが欲しくなる頃合いを迎えた、私立探偵社『ホークアイ』の事務所。 そこには、事務員である女子社員の鎌崎希凛音が受付と電話番を兼ねて、一人で待機していた。 「……ヒマやねぇ。ま、そうそう事件ばかり起こっとったら、世の中どうなっとるんやろ? と思ってまうけどね」 誰も居ない、窓の外に向かって彼女は呟く。鳴らない電話をジッと見つめるのも、そろそろ飽きて来たのだ。 「話し相手が欲しいトコやけど……無理やね。此処を留守にする訳にもいかへんし。ああ、外はええ天気やのに……」 未だ風は冷たいが、空には雲一つない上天気であった。防寒をしっかりしておけば、外を出歩いても大丈夫であろう。増して、彼女は現在、想い人と相思相愛の間柄になったばかり。デートの一つもしたいところだ。 図書館司書としての仕事も、今日は非番。だから此処に詰めているのだが、他の社員が常駐している訳では無いので、基本的に単なる『留守番』で終わる事の方が多いのだ。 時計に目をやると、時刻は午後3時を少し回ったところ。終業時刻まであと2時間半近くもある。 仕事柄、忙しいのも考えものだが、こうも暇な時間が続くと『これで良いのか』と良心の呵責に捕らわれる事もある。そう、こうやって時間を潰しているだけでも給料が貰えるからだ。 尤も、そこに居る事自体が仕事なので、そこで彼女が責められる事は有り得ないのだが、やはり『申し訳ない』という気持ちになってしまうのだ。 「……あかん、ボーっとしとったら申し訳ないわ。この間に、帳簿の整理でも……」 そう考え、手元のパソコンで出納長を開こうと操作を開始した、その刹那。唐突に、ドアをノックする音が聞こえた。 (誰や? 今日はアポイント、入っとらん筈やのに) 怪訝に思いながらも、希凛音はドアの外に立っているであろう客に応じる為、返事をしながら席を立った。そこで接客をする事もある為、広さは充分にあるが、何せ古い設計の雑居ビル。インターホンなどという洒落たものは備えられていない。依って、来客の際にはドア付近まで歩み寄り、直接出迎える必要があるのだ。 「どちらさんどすか?」 「けっ、警視庁警備部・機動隊所属! 如月士巡査であります!」 「つ、つっくん!?」 そう、来訪者は意外も意外、希凛音の幼馴染である警視庁の如月士だったのだ。何故、彼が此処に赴いたのか、それは全くの謎であった。が、その動機は、極めて単純なものであった。 *** 「粗茶どすが」 「お、お構いなく……キリちゃん、もしかして迷惑だったかい?」 おずおずと、頭を掻きながら、士が希凛音に尋ねた。が、彼女も丁度退屈していた処だったので、渡りに船と云う具合だった訳である。 「ううん。ちょうど仕事がひと段落して、手ぇが空いたトコだったんや」 ……日がな一日、仕事も無く暇を持て余していた、等と口に出すのは流石に拙い。依って、希凛音は『ちょうど手が空いた』と芝居を打った。 「普段は何をして……あ、手の内を探ろうとか、そういう意味じゃないからね?」 「そんな事、疑ったりせぇへんよ。守秘義務があるさかい、お客さんに関する話はダメやけどね……普通の会社と変わらへんよ、帳簿を付けたり、電話応対したりしとるんよ」 へぇ、と頷くと、士は次に『依頼人が来た時は?』と質問してきた。 「所長たちは普段、此処には居らんさかいな。お客さんの受け付けとか、依頼内容の確認もウチの仕事や」 「危なくない? ヤバい連中が来る事もあるんだろ?」 「つっくん、ドラマの見過ぎや。探偵社に来るお客の大半は、普通の人ばかりや。内容も、人探しとかが圧倒的に多いんやで」 その話を聞いて、士はホッと安堵の息を漏らし、笑顔になった。どうやら、以前に顔を合わせた際の状況から察して、かなり危ない仕事を任されているのではないかと、心配になってわざわざ此処まで赴いて来たらしいのだ。 「つっくんこそ、今日はどうしたん? お仕事は?」 「この格好を見て分からないかい? 今日は非番だよ。だから暇だったんだけど、寮の連中とばかり顔を合わせていると、気が滅入るからね」 その言に、嘘は無いようだ。非番であるのは本当だろうし、狭い寮の中で燻っているのが退屈だと云うのも事実であろう。 「あ、それで……」 「……? どうしたん?」 「手土産なしじゃ、あまりに失礼だからね。皆で食べて貰おうと思って。キリちゃん、これ好きだっただろう?」 白い、飾りっ気のない箱を差し出され、希凛音は思わず気色ばむ。手に持った瞬間、ひやりと冷たい感触が伝わる。間違いない、これは内部がドライアイスで冷やされている証拠だ。とすると…… 「いやぁー、嬉しいわぁ! よう覚えとったねぇ、ウチがコレ大好きやったの」 箱の中身は、モンブランだった。希凛音は子供の頃からこれが大好物で、満腹状態でもこれだけは食べられると豪語する程の愛好家であったのだ。そして、その笑顔を見て、士も思わず嬉しそうな顔になる。 「忘れようがないよ。子供の頃、自分の分をペロッと食べちゃって、隣にいたオレの分をしっかりロックオンして……」 「嫌やわぁ、忘れてぇや。子供の頃の話やん、もぉそんな意地汚い真似、せぇへんよ」 頬を朱に染めながら、それでも箱の中のそれから目を離せない。やはり彼女も人の子、大好物を目の前に差し出されたら心も弾むというものだろうか。 「あ、お茶、冷めてもうたね。淹れ直すさかい、一つ頂きまひょ」 「いやぁ、これは皆さんへ持って来た土産だし。オレが食べてしまう訳には行かないよ。オレの事はお構いなく、キリちゃんの笑顔を見られただけで充分だから」 その言に、希凛音はチクリと胸を刺されたような気持になる。態度や言動から、彼が自分に対して好意を持っている事は何となく分かるからだ。しかし、希凛音自身は既に、ある人物と急接近しつつある。それを考えた時、酷い罪悪感を覚えるのだ。 その後、数十分ほど談笑しただろうか。門限があるからと、士は退出していった。 「相変わらず、生真面目で……マメなんやねぇ。ウチの好物まで、しっかり覚えとるなんて……」 冷蔵庫に仕舞われた、土産のモンブラン。それは確かに、希凛音の大好物であった。 しかし……彼女はその事を、皆に知られる事を恐れていた。普段、彼女は甘いものを出されても『苦手である』と嘘をついて、辛党を装っていたのである。 他の社員たちは此処に来る事なく、仮の姿であるカフェバー『ハイド』の店員としてそこを根城にし、情報収集や捜査活動を行っている。そんな彼らに、差し入れとしてこれを持っていく事は容易い。が、そうなると希凛音もその場でモンブランを食べなければならないが、そうなると表情から『甘党である』事がバレてしまう。 好物をみすみす逃すのはあまりにも惜しい。とは言え、この量を一人で平らげるのは無理である。 彼女は今、一人残された密室の中で、大量に持ち込まれた好物を前にして、一人葛藤を続けていた。 ●好物の行方 午後5時30分。終業の時刻を迎えた希凛音は、冷蔵庫からモンブランの入った箱を取り出し、それを揺らさぬよう丁寧に捧げ持ちながら、静かに事務所を後にした。 向かう先は、カフェバー『ハイド』。目的は、この差し入れを皆に届ける為である。 (つっくん、堪忍や……ウチかて、これを頬張りたいんは山々なんや。けど、女の意地ちゅうモンもあるんや!) 箱に目を向ければ、どうしても『惜しい』という気持ちが勝ってしまう。だから、なるべく『見ないように、見てはアカン』と自らを律しながら、彼女は歩いていた。 *** 「いらっしゃ……何だ、キリさんじゃないですか」 最初に彼女を出迎えたのは、保科翔であった。彼は年齢的な事と、そのルックスが整っている事を理由に、同期であり恋人でもある女子社員の如月碧とペアを組む形でホール担当のウェイターとして働いていた為、希凛音の来訪をいち早く認めることが出来たのだ。 「あは……夕方にな、皆さんでどうぞって、差し入れしてくれた人が居ったんよ。だから、届けに来たんや」 「わぁっ、モンブランだぁ!」 箱の中身を見て、眼の色を変えたのは碧である。彼女も甘党なのだろうか、ケーキの類は大好物であるようだ。 「ん、丁度お客も居ないし。丁度いい、一息入れよう。鎌崎くん、有難う。早速頂く事にするよ」 マスターであり、ホークアイの社長でもある榊誠一が、皆を呼び寄せて休憩を宣言した。社長がそう言うのだ、社員である皆がそれを否定する理由は何処にも無い。 「ザキさん、これを差し入れてくれた人は?」 「え? あ、えーと……」 何故か口籠る彼女を見て、質問した長谷川徹が怪訝そうな顔になる。 「お客さんからの頂き物なのか?」 「ちゃいます、それは……ウチの友達が、陣中見舞いや言うて持って来てくれたモンどす」 「なら、堂々と言えば良いじゃねぇか。何でオドオドしてんだ?」 「その……頂いたんは有難いんやけど、ウチは甘いもん、苦手やし……だから、ちょっと申し訳のうて」 苦笑いを浮かべ、皆がムシャムシャとモンブランを平らげる様を見ながら、『ああぁ……無くなってまう、ウチの好物が……』と、心の中で彼女は叫んでいた。 「ふむ、鎌崎くんがコレを苦手とすると、一つ余ってしまうが……」 「……それ、俺が貰っときます。夜中に腹減るし、おやつ代わりに丁度いいですから」 「そうか? トオル、お前も辛党じゃなかったか?」 「気まぐれって奴ですよ。なぁ翔、悪ぃけどそれ、冷蔵庫に入れといてくれ」 はぁ……と、釈然としないものを覚えながら、翔は言われた通りに一つ余ったモンブランを冷蔵庫に収めた。そしてホールに戻ると、希凛音と徹の姿が無くなっていた。 「あ、あれ? お二人は?」 「ザキさんが先に出て行って、後を追うようにしてトオルさんが……」 やはり、訳が分からん? と云うような表情を浮かべながら、碧が翔に事を伝えた。 尤も、彼ら以外のメンバーは、何があったのかを既に見通していたようではあったが、敢えてそれを口には出さなかった。 ●言えないのか? 「ザキさん……アレを持って来たのがアンタの友達、それは信じよう。でも、一つ嘘をついてるよな?」 「な、何の事や……ウチ、ホンマに甘いもん、苦手やから……」 「……そうかい」 短いやり取りであった。が、最後に徹が発した台詞には、明らかな悲しみが表れていた。 俺にも言えないのか、嘘を吐くのか……彼はそこが悔しく、そして悲しく思えたのだった。 |
如月 士 (ID:pori0001) 小泉 恵 (ID:peop0001) |
発言の確認をしたい場合などは、ご遠慮なく。 |
●何してるの? 徹が希凛音を問い詰めていた時、モンブランを届けた張本人である如月士が、再びケーキ店のショーケースを眺めていた。 (オレとした事が、人数を数え間違えるとはね。そうだよ、キリちゃん本人を入れたら5個じゃ足りないじゃないか) そう、彼は一度寮に帰り着いたところで、思い出したのだ。『ホークアイ』には、あのいけ好かない、ニヤケ面で口の悪い男が居るのだと云う事を。 人の好い彼女の事、自分の事は後に回して我慢するであろう……そう考えた士は、先に届けたモンブランよりも高価で見栄えのする、モンブランプリンを改めて購入し、『ハイド』へと向かっていた。 (あの糸目野郎、キリちゃんに粉かけてやがったからな……此処でガツンと差をつけておかないとな!) 士と徹は、嘗て山岳地帯での救難活動時に口論となったのが切っ掛けで、事ある毎に火花を散らし合うようになっていたのだ。オマケに、互いに狙っている女性が同じ事も相まって、ライバルどころか仇敵と言える程のいがみ合いを周囲に見せていた。 ――尤も、希凛音の心の内はほぼ決まっており、士の方がかなり不利な状況になっているのだが……これは未だ本人の与り知らぬ処。だからこそ、彼は懸命に希凛音の気を引こうと必死になっているのだった。 *** 士が『ハイド』の付近まで来た時、丁度裏口で空き瓶の片付けをしていた翔と碧の会話が耳に届いた。 「結局、キリさんにアレを届けに来た人って、誰だったんだろうね?」 「それは分からないけど、三沢さんが休みじゃ無かったら、一つ足りなかったトコだよね」 何だと!? と、思わず士はそこで足を止めてしまう。 然もありなん。結果としてケーキの数は足りており、いま顔を出せば良い面の皮。 いや、自分は事情を知らなかったのだし、不自然ではない……だがしかし、等々。このまま歩を進めて店に顔を出すか、余計な事はせず去るのが良策か……兎に角、士は葛藤した。そう、その様を一人の少女が眺めている事に気付きもしない程、真剣に。 「……おにーさん、お店の前で何やってんの?」 いきなり掛けられたその声に、士は思わず驚き、半歩ほど後ずさりをしていた。 「わぁっ! ……ほ、本官は……あ、いや、オレは別に……」 と、何故か動揺し、言い訳をしようとしていた彼が我に返り、ふとその相手を良く見ると…… 「あれ? 君は確か、この店に良く来る子だね?」 「そだよ。お茶飲みついでに、いま展開中のラブラブ話を聞きに来たんだよ」 そうかそうか、間違っていなかったか……と、安堵したその直後。彼は少女の発した言葉を反芻し、再び焦燥に駆られた。 「ら、ラブラブ……って、誰と誰の事かな?」 「え? お兄さんの友達の、メガネのお姉さんと、長谷ちゃんだよ。知ってるでしょ? あのちょっと口の悪い……」 「知ってるも何も!! ……何てこった、冗談じゃないぞ……」 爪を噛みながら、その場でウロウロし始め、ブツブツと念仏のように独り言を繰り返す士を見て、少女――小泉恵は『変なの』と肩を竦め、店内に入ろうとした。が、その刹那。自分を呼び止める声を聞き、再び足を止めた。 「あのさ、その話って……いつ頃聞いたのかな?」 「……そんな事を訊いて、どうするの?」 「どう、って……困るのさ。彼女と奴が、あまり仲良くなるのはね」 その一言を聞いて、恵は事情を察したようだ。口の傍を少し上げ、意地の悪そうな表情になって士を見上げている。 士の方も『悟られた』と云う事には気付いたようで、最早それを隠す事はマイナスにしかならないと、腹を決めたようだ。 (これは、毒を食らわば皿までと云う奴だな……この子を抱き込んで、奴の弱みの一つも握れば……) 警察官と云えども、所詮は人の子。己が命運が懸かっているとなれば、形振り構ってはいられないと見える。 と、そこに、未だ裏口の片付けが済んでいないのか。先程の会話の続きを、翔と碧が展開しているのが聞こえた。 「でもさ、キリさんが甘いもの嫌いだなんて、聞いた事あった?」 「んーん? 寧ろ大好きだって、前に聞いたような気がするんだけど」 その会話から、どうやら希凛音がモンブランを食べていない為、ケーキの数は丁度良かったのだが一つ余る結果となっているようだぞ……と、凡その事情が掴めてきた。 その時、士は希凛音が『休暇中の職員に遠慮して、自分が身を引いているのだ』と思い込んでいたようだ。 が、大事に取っておいても、ケーキなど一両日も放置したら風味が落ちるし、第一、衛生上も宜しくない。依って、結果的に希凛音が食べる事になるだろう。そうなると、自分が持って来たモンブランプリンが、更に惨めな事になってしまう。 そこで彼は、一計を講じた。つまり、いま余っているモンブランを、誰かが代わりに消費してしまえば良いのだ。 この役目は……彼女以外に適任者は居ないだろう。士は、そんな目で恵を見ていた。 「なぁ君、甘いものは好きかい?」 「んー? 大好きだけど、それが何?」 「実はね、オレがさっき持ち込んだモンブランが、一個余ってるみたいなんだ」 何ですと!? と、恵の目が輝く。 喫茶店でケーキを頼む事は、親からの小遣いだけで遣り繰りをしなければならない高校生にとっては、ちと辛い。 しかし、貰い物で、しかも余っている物となれば、それを頂いてもお金は取られまい。 問題は、その余りが元来、誰の分なのかと云う事であるが…… 「今日、あの大柄な人が休んでるみたいだね」 成る程、三沢さんの分か! でも、明日まで取っといたら固くなっちゃうよね! と、恵はすっかり『獲る』気になっていた。それを見た士は、邪魔者が消える事を確信した。 そして、手元には新たなプレゼント。これで奴より優位に立てる! 士はそう信じて疑わなかった。 「余っているモンブランは、たぶん冷蔵庫に保管してあるよ。お店には出せないだろうからね」 「それをアタシが探し出して、お腹に入れれば良いんだね? それで、お姉さんにはそのデラックスな奴を……でしょ?」 「そういう事。オレは君のミッション成功を見届けたら、店に入るから」 「OK! 但し、アタシが叱られそうになったら、フォローしてよね。けしかけたのはそっちなんだから」 分かってるよ、と一言添えて、密約完了。 恵は少々細工をしてから店に入り、士はその場で待機しながら店内の様子を窺う事となった。 ●獲物は何処ですか 「あれ? 恵ちゃん、今日は一人?」 「そうなんだー。皆、付き合い悪くて。あ、紅茶お願いします」 「はい、少々お待ち……って、どうしたのコレ、血が出てるよ?」 「え? あ……あの時かなぁ。大丈夫だよ、ちょっと転んだだけだから」 ダメダメ、と注意され、注文を取りに来た翔が碧にバトンタッチ。オーダーは後回しにして、擦りむいた膝の傷を手当てする為、従業員控室に誘導するよう頼んだようだ。 ……が、その傷は店に入る前、恵が自ら付けた浅い傷。彼女が店内に入る前に施した細工とは、これの事だったのだ。 「痛くない?」 「こんなの、怪我のうちに入らないよー」 「ダメだよ、掠り傷でも放置すれば、雑菌が入って化膿する事もあるんだから」 「うひっ! 沁みる!」 消毒液を傷口に掛けられ、恵は痛みで思わず顔を歪める。が、これもモンブランをせしめる為……と、彼女は涙目になり乍ら堪えていた。 「碧ぃー、ホールに戻って! 混んで来たよ」 「あ、はーい! ……ゴメンね、行かなきゃ。消毒が乾いたら、コレを貼ってね。傷口、手で触ったらダメだよ?」 「ありがと、碧さん」 ニコッと微笑みながら去っていく碧を見送ると、恵はニヤリと笑みを浮かべる。目の前に、小型の冷蔵庫があるのを見付けたからだ。そして、それが従業員用の物である事は一目瞭然であった。何故なら、業務用の冷蔵庫は厨房にある大型の物である事が分かっているからである。 「では、ちょっと失礼……ターゲット・インサイト!」 それは、あまりにアッサリと見付かった。明らかにそれと分かる、白い紙製の箱。その中に、一つだけ残された宝物。 恵はそれを冷蔵庫から取り出すと、パクリと一口。甘い、栗の香りと柔らかなクリームの感触が舌の上で踊る。 ……っと、ノンビリと味わっている暇はない。自分は今、盗み食いをしているのだ。見付かればまず説教は確実、悪くすればお仕置きも覚悟しなければならないだろう。 (けど、これはあのお兄さんが、メガネのお姉さんをオトす為の援護射撃なんだから! 必要悪って奴なんだよ、うん!) そう自分に言い訳しながら、下部のカステラもキレイに食べてしまった。もう、後戻りは出来ない。 (こうやって、箱を残しておけば暫くはバレないよね。ふふ、御馳走様!) こうして、まんまとモンブランをタダでせしめた恵は、上機嫌でホールへと戻って行った。膝の傷も、これなら安いものだ……そんな事を考えながら。 *** それから、小一時間ほど経過したであろうか。喫茶店としての業務を終えて、バーにチェンジする時間がやって来た。 その時刻を過ぎても、席に着いている客が追い出されるような事は無い。が、メニューは喫茶店の物からバーの物へと置き換わる為、珈琲・紅茶の類はオーダーできなくなる。 丁度、そのタイミングを見計らって士が店内に入ってきた。その際、テーブル席に着いていた恵とアイコンタクトを交わし、事の是非を確認し、ニヤリと笑う。 「あれ? キリちゃん?」 「つっくん!? 寮に帰ったんとちゃうのん?」 「それがさぁ、ちょっとドジっちゃってね。さっき、ケーキの数を間違えたんだ。一つ、足りなかっただろう?」 それは確かやけど……わざわざ!? と、驚く希凛音に笑顔を向けながら、士は先程の物よりやや小さい箱を差し出した。 「……!! これ、さっきのより高い奴やん!?」 「高いって言ったって、数百円の世界だよ。遠慮されるような額じゃないさ」 ……と、そんな会話を彼らが交わしている時。一際鋭い視線を背後から浴びせる影があった。 (……ッの、ガキゃぁ! 良くもまぁ、いけしゃあしゃあと此処に来れたもんだぜ……面の皮の厚さは、大したもんだな) 彼――徹の手許には、洗い掛けの皿やカップが泡を被ったままプカプカ浮いていた。その視線は、カウンターの向こうに居る士のニヤケ顔をしっかり睨み付けたまま、食器類を取り落とす事なく正確に洗い上げていく……まさに神業であった。 「君は確か、日下部君の所の……今日のケーキは、君が差し入れてくれたのか」 「お口に合いましたでしょうか?」 「ああ、美味かったよ。御馳走様。お礼に一杯、奢らせて貰うよ。飲んでいってくれ」 「い、いえ! 自分は決して、そのような……それに、独身寮内は禁酒でして。御厚意だけ頂戴いたします」 そうかい? と残念がる榊に礼をしながら、士は再び希凛音の隣のカウンター席に陣取る。此処は譲らないぞ、と云う意思が剥き出しのまま、徹に向けられているのが目に見えて分かる程だった。 (うわぁー、露骨だねー!) (それだけ必死、って事なんじゃない? ……って、トオルさん……あっちゃー、睨んでる、睨んでるよ。アレは危険だよ) そう。徹はカウンターの中から、射るような視線を士に向けていた。無論、受ける側の士もそれに気付き、それでいて余裕でその視線を捌いていたのだ。それは、勝利を確信した者の余裕だったのかも知れない。 「さっきの分、キリちゃんは他の人に譲って、食べなかったんだろう? 遠慮する事なんか無いのに」 「あ、あんな? ウチ……ちょ、調子悪いねん」 「え? 事務所では、あんなに元気だったのに?」 その会話が為されている間も、希凛音はモンブランプリンから目が離せない。余程の好物なのだろう、かなり無理をしているのが分かる。 (糞が! ザキさん、困ってんじゃねぇか! 空気読み……ん? ちょっと待て? 奴ぁ、さっき何と言った?) 徹は、数分前に士が紡いだ台詞を脳内で反芻していた。そして、そこに違和感を覚えたようだ。 「すまねぇ翔、ちょっと代わってくれねぇか?」 「あ、はい! どうしました?」 「3番だ」 飲食店である為、好ましくない表現や、店側の都合による退場などの際には隠語が使われる事になっていた。因みに、3番と云うのは『生理現象』……要するに、トイレの事である。 そうして皿洗いを翔と交代し、徹はカウンターから消えた。が、彼の行き先はトイレではなく、控室だった。 (奴ぁ、ザキさんがケーキを食ってない事を知ってやがった。何処で? 誰に聞いたんだ? 誰かが教えなきゃ、分かる筈無ぇ事なのに……) 室内にある、家庭用と同じ小さな冷蔵庫の中を覗くと……やや大きめの白い箱が目に入る。が、それを持ち上げてみると…… (……無ぇ。誰かが食った……? そんな暇は無かった筈だ。いや、待て……さっき、この部屋に入った奴が二人いる……) そう、膝に怪我をした恵を手当てする為、碧が此処に彼女を通したのだ。 そして、ホール内の混雑を解消する為、碧だけを呼び戻した……その際、この部屋に残ったのは一人。それが誰かは、直ぐに分かる……が、当面の問題はそこでは無い。 (頭の黒いネズミが居るのは分かる……それが誰かも、だ。が、それを問い詰めたところで、証拠なんかありゃしねぇ……チっ!) エプロンを外し、私服のコートを羽織っただけの姿で、徹は裏口から外に出た。 そして走った……まだ、店が開いている事を祈りながら。 「トオル……トオル? どこ行った?」 「あ、3番入りました」 「……今まで、俺が入ってたのにか?」 「え!?」 ……そう、彼は走った。勤務中である事も、すっかり忘れて…… ●それ、くれっ! 港湾地区から少し走った所……所謂、市街地の外れ。 そこに、目的の店はあった。 「よーしよし、まだ開いてたな……あとは、アレが残っているかだが……」 自動ドアが開くのを待つのも惜しいのか、開きつつある扉の隙間を抉るようにして、徹は店内へと入って行った。 「ハァ、ハァ、ハァ……」 「い、いらっしゃいま……せ?」 鋭い目つきで、ショーケースの中を覗く。時間が時間だけに、その中身は空に近かった……が。 あった。辛うじて2個、目的のモノが。 「ネェちゃん! そこの、上にソバが乗っかったケーキ! ありったけ!」 「そ、ソバ!?」 「も、もしかして……モンブランの事じゃない?」 「名前なんざぁ、どうだっていいんだよ! これだよ、これ! 大急ぎで出してくれ、早く!」 勢いに飲まれたか、やや怯え気味になった店員が、ショーケースの中のモンブランを箱に入れる。それを徹に手渡すと、彼は千円札2枚をカウンターに叩き付け、『釣りは要らねぇ!』と言って、また急いで駆け出して行った。 「威勢も良いけど、気前も良いお客様ね……モンブラン、一個450円なのに……」 後に残された店員は、茫然とその札を眺めながら、このままレジに通してしまって良いのだろうか……と、暫し悩んだという。 *** 「食べないのかい? 好きだって言ってたのに」 「…………」 希凛音は、沈黙を守る事で士からの『誘惑』を回避していた。しかし、それはギリギリのラインを伝った、非常に無理のあるタイトロープだった。僅かでも気を許せば……無意識のうちに手はスプーンに伸び、誘惑に負けてしまうだろう。 「さっきの奴だって、食べてないんだろう? 好物を我慢するなんて、らしくないよ」 「え? ザキさん、さっき甘いものは苦手だ、って……」 「は? 何を言ってるんだい。彼女は大の甘党だよ、それもモンブランが大好きなんだ」 「……!!」 希凛音が必死で守って来た秘密が、誘惑を断つための背水の陣が、士の言葉によって崩され、暴露されて行った。 だが、それでも彼女は堪え続けた。 もし、叫ぶことが許されたなら。彼女は士に向かってこう言っていただろう。 『もうやめて、黙って! ウチかて食べたいんは山々なんや、けど! 今までの甘えが、自分でも許せへんのや!』と。 しかし、それでも尚、士は希凛音への誘惑を止めようとしない。 彼は『彼女はこれが好きなんだ、食べたらきっと喜ぶ筈だ』と。そう信じて疑わなかったのだ。 「なぁ碧? どっちが本当だと思う?」 「そんな、私に訊かれたって……」 翔と碧も、困った様子である。 榊は、どちらが嘘を吐いているかを既に見破っていた。しかし、それを暴くのは自分の役目ではない……それが分かっていた為、敢えて口を挟まず、成り行きを見守っていた。が……流石に士のしつこさに苛立ちを覚えたのか、間に割り入って彼を制止しようとした。 「先程、彼女は体調の不良を訴えた。だからケーキは食べなかった。そうだね? 鎌崎くん」 「社長……はい、ウチは……」 「キリちゃん、嘘はいけないよ。君はさっき、事務所であんなに喜んだじゃないか。一緒に食べようとも、言ってくれたじゃないか。なのに、急に調子が悪くなるなんて、そんな事ないだろう?」 「気温や湿度の変化で、急激に体調が悪くなる事もある。無理に薦めては……」 「……いや、この野郎の言ってる事は本当ですぜ。ザキさんは本当は、そのケーキを頬張りてぇ筈だ」 え!? と、その場に居た誰もがそう思っただろう。そう、希凛音本人も含めて、だ。 声の主がカウンターの奥から姿を現すと……それは意外な人物だった。 「は、長谷川はん!?」 「俺が食うから取っておけと言った、あのケーキ……ちゃんと仕舞ったよな?」 「は、はい。ちゃんと仕舞いましたよ、控室の冷蔵庫に」 その会話を聞いて、徐々に顔を下に向けて視線を逸らそうとする姿があった。そう、恵である。 「けど、それが何故か箱だけになってたんだよなぁ……不思議な事もあるもんだなぁ、お嬢ちゃん?」 「そ、そうだね! 手品みたいだね!」 「だな……ん? おい嬢ちゃん、ほっぺに何か付いてるぜ?」 「え? やだ、さっきのクリーム……あ!」 ……恵、陥落。見事なまでの誘導尋問に引っ掛かり、あっさりと犯行を認めた。が、重要なのは実行犯ではない。 「あ、アタシは! あそこにケーキがあるよって、誘われたんだよ!」 「……嬢ちゃん、テメェの罪を認めるのは潔い事だ、褒めてやる。だがよ、共犯を売るってなぁ感心できねぇぜ?」 「あ、う……」 徹の鋭い目線に気圧され、恵の視線が泳ぐ。碧の方を向けば、救援を求めていると思われる。と言って、士の方を見る訳にもいかない。それは即ち、黒幕が誰かを教える事になるからだ。 「真っ直ぐに、目線を合わせられない……心に疚しいものがある奴は、必ずそうなるんだよ」 「う〜〜……」 「で、だ。ウチの連中がつまみ食いをする、ってのも在り得ない。おやっさんは勿論、翔や碧だって、『俺が食うから』と言って弾いて貰ってたモンに、手を着けるような真似は絶対にしないからな」 「……じゃあ……」 全員の視線が、ある人物に集中する。その目線の先に居たのは……そう、士である。 「お、オレは! 彼女にモンブランがあるぞ、って教えただけで! それを食っちまったのは、彼女の勝手だ!」 「あー、ひどぉい! アタシは喋らなかったのに! 叱られそうになったらフォローしてくれるって、そう言ったのに!」 「出鱈目だ! オレはそんな事……」 そこまで口に出した時、士の頬に激痛が走った。そして、ホール内には乾いた打撃音が木霊した。 「……キリちゃん?」 「そんな人やったなんて……女の子に罪擦り付けて、逃げようとするなんて! 情けないにも程があるで!」 「お姉さん、ゴメンナサイ……冷蔵庫のケーキ、食べちゃったのはアタシです。あんな美味しいの、初めてだったかも……」 すっかり素直になった恵が、頭を下げながら希凛音に詫びを入れた。希凛音は、そんな恵を優しく見詰め、そして頭を撫でていた。 「ええんよ。良く、正直に言うてくれたね。その気持ちがあれば、大丈夫。心の綺麗な大人になれるで」 「だな……で? どういうつもりで、この嬢ちゃんを誑かしたのか……吐いて貰おうかい!? アンちゃん!!」 「ぐっ……た、誑かすつもりは……無かった。ただ、俺は彼女の……キリちゃんの喜ぶ顔が見たくて……」 「手段は二の次、彼女の気持ちは更にその次、ってか!? ッざけるねい! この腐れ外道が!! それで、日本の治安を守る立場にある、だと!? 日本の警察官採用試験ってなぁ、どうなってるんでい!!」 流石に、元・任侠と云うところだろうか。その啖呵を切った時、榊でさえも背筋に冷たいものを感じたと云う。 「まぁ、落ち着けトオル。他のお客さんも居る、落ち着くんだ」 「……スンマセン……ただ、この野郎は……」 「あぁ、分かっている……申し訳ないが、君は出入り禁止にさせて貰うよ。今後も、このような事があっては困るのでね」 「グッ……だが! 引き下がるのは一度だけだ、オレはキリちゃんを諦めたりは……」 と、士は希凛音の方へ視線を向ける。しかし、そこにあったのは……彼の知る、暖かで柔らかな女性の姿では無かった。 「おちょくるンも、いい加減にしとくれやす……ウチの家の事、忘れた訳やおまへんやろ? そんな、甘い女や無いんやで」 「分かったかよ、小僧。信頼ってなぁな、作るのはえれぇ難しいが、壊れる時は一瞬ありゃあ充分なんだぜ」 「そ、そんな……」 既に、士には立つ瀬が残されていなかった。あるのは退路のみ、真っ直ぐ後退する以外に手段は無かったのだ。 無論、今後一切、彼が希凛音に対し好意を匂わせる言動は許されない。彼は、それほどの事をしてしまったのだから。 ●美味しいね! 「おやっさん、無断外出の件、申し訳ありませんでした!」 「んー……何の事だ? 生理現象なら仕方あるまい、腹を壊していたんだろ?」 普段ならペナルティを課すべき所ではあるが、事が事だ。情状酌量の余地はある、そう榊は判断していた。勿論、徹に対する罰は一切なし。彼は腹を壊してトイレに籠っていた、それだけだと言い切ったのだ。 「もうチョイ、格好のいい理由にしときゃ良かったなぁ……締まらねぇや」 「いいえ、長谷……いや、徹はん! 男の中の男どす! ウチは、そんなトコに惚れたんどす!!」 「ちょ、ま……あ、あっち! あっち行こ! な!?」 慌てて立ち去る徹と、その手を引かれて赤面しながら一緒に走り出す希凛音。その背後から、拍手と一緒に笑い声が聞こえてきた。無論、その笑い声は蔑みの声ではなかった。 「あー……ザキさん。もうチョイ、TPOってモンを考えて……ねぇのは俺も一緒だな。派手に無断外出しちまったし」 「ウチは、何も恥ずかしい事は言うとりまへんえ? 本心から、そう思ってるから口に出しただけどす」 「敵わねぇなぁ……っと、次ん時は俺から言わせて貰うから、そのつもりでな! ……で、コレ。好きなんだろ?」 「……!! ハイ、大好きどす!!」 食い過ぎて、腹壊さないようにすりゃあ良いんだよ……徹はそう言って、場を締めた。 フワフワした膝枕が気持ちいいから、そのままで居てくれと、その言葉を付け加えて…… 後日談になるが、『これで独り者は俺一人か』という声を聞いたと云う者が居たが、その声の主が誰だかは、定かではない。 <了> |